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なぜ医師として福島で働くのか(3)・完 ~キャリアと震災関連活動、両立に至る道筋~

公益財団法人ときわ会常磐病院 外科医・臨床研修センター長 尾崎章彦(福島県立医科大学特任教授)

2012年4月から2年半にわたる竹田綜合病院(福島県会津若松市)での外科トレーニングの後、14年10月に同県の南相馬市立総合病院に外科医として赴任しました。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から、既に約3年半が経過していました。

筆者は竹田綜合病院で、外科医として挫折を経験しました(連載第103回〈1月31日号〉)。そして、ぼんやりと「次の目標を定めなくては」といった思いを持ち、南相馬市立総合病院に赴任しました。その一方で、このような心情だったので、赴任した時点では、同院に長期間在籍することはないだろうとも考えていました。

しかし結果的には、3年3カ月にわたり在籍することになりました。現在でも月に数回は非常勤医師として南相馬市で診療を続けており、この地域との「お付き合い」は7年を超えました。最大の理由は、地域への愛着と、震災後の健康影響調査への関わりです。

特に、震災後の健康影響を評価し、それを後世に残していく活動は社会的な意義が大きいと筆者は考えてきました。それが大きなモチベーションとなってきたことは言うまでもありません。しかし、改めて言うまでもなく、震災に関する調査やそれに付随する活動は、医師として「王道」の仕事ではありませんし、それに携わることは、典型的なキャリアパスでもありません。誤解を恐れずに言えば、震災に関する活動に携わったとしても、皆が思い描くような医師としての「出世」に通常はつながりません。どの業界でも、いわゆる「出世コース」があると思います。過度の類型化は慎むべきですが、医師としての出世には有力な病院での研修、基礎研究への従事、海外での基礎研究活動などが重要とされてきました。

なお、ある先輩医師は、震災後に、福島県浜通り地方で支援活動に従事することを同僚医師に告げた時、「これでライバルが減ったな」と言われたそうです。一般に、医師の中で、現地での活動がどのように捉えられていたかがよくわかる言葉だと思います。その尺度で、南相馬市での活動を判断すれば、それは出世コースから外れることを意味します。そして当時の筆者は、そのような状況に陥ることを危惧していました。いずれ母校の東京大学あるいは、それに準じる大学医学部に所属し、大学院にも入り、他の多くの医師と同じようにキャリアを積んでいかなくてはならないと考えていたのです。その意味では、当時の筆者は既存の価値観に染まっていたと言えます。

しかし南相馬市で活動を続けるうちに、筆者の考え方は徐々に変わっていきました。南相馬市立総合病院で活動を継続した方が意義深いだけではなく、自身のキャリアにとって、よりメリットが大きいのではないかと考えるようになったのです。その過程を振り返ることで読者の皆さんに、地方の病院における医師の定着につながるヒントを感じ取っていただければと思います。

◇南相馬市立総合病院のブランディング戦略

南相馬市は、福島第1原発から北に10〜40㌔に位置する福島県・浜通り地方(沿岸部)の相馬地方(浜通り地方の北部)最大の自治体で、北から鹿島区、原町区、小高区に分かれています。南相馬市立総合病院は原町区にあり、福島第1原発の北23㌔に位置します。

筆者の赴任当時、小高区は避難区域に設定されており、立ち入ることができない状態でした。しかし、その北隣の原町区は震災直後から避難指示は出ていませんでした(もちろん自主的に避難される方々はいました)。そのため、原町区は震災直後から復興作業の最前線と位置付けられ、南相馬市立総合病院も市唯一の公的病院として、震災後の市民の健康を守り続けてきました。

震災後の同院には、大きく分けて三つの役割がありました。一つ目は一般的な疾病に関しての医療を提供すること、二つ目は震災後の健康影響を評価すること、三つ目は若手医師の教育に寄与することです。このうち医療提供は、震災前から同院が地域で担ってきた役割でしたが、残る二つは震災後に新たに加わった役割です。

坪倉医師は東大医学部の出身で、筆者の4学年上の先輩に当たります。筆者が南相馬市立総合病院に赴任した当時、自分より年次が少し上にすぎない若手の坪倉医師が、現地で診療に従事しながら震災後の健康影響調査の中心として活躍されている姿に感銘を受けました。筆者が南相馬市で活動を続けていこうと考えるようになった大きな要因の一つです。

若手医師の教育に関しては、医学部卒業直後の医師「初期研修医」を受け入れていましたが、彼らを惹き付ける上でも坪倉医師の存在は極めて大きかったと筆者は考えています。上医師や同院の幹部は、坪倉医師の活躍を意識的に前面に打ち出す戦略を取ったのです。それが筆者のようなフォロワーを次々と生み出すことにつながり、同院や地域に大きなメリットをもたらしたのです。

私見ですが、都市部などの医師の供給が多い地域においては、自身が思うような活躍ができずに(あるいは評価されずに)、「くすぶっている」若手や中堅が、少なくないように感じます。筆者も、なんの考えもなしに東京に戻っていたら、どこか煮え切らない思いを抱えながら、医師のキャリアを送っていた可能性があります。また、そこまでいかなくても、「自身の能力を高めたい」「他の医師と違うことをしたい」と希望する医師は多くいるように思います。もちろん、現在は医師の価値観も多様化しており、このような既存の枠にはめ込んで医師のキャリアを捉えることへの批判もあり得るでしょう。ただ、地方病院における医師人材の確保に当たっては、こうした層にリーチし、地方で働くことの魅力やメリットを感じてもらうことが重要となります。その意味で、同院のブランディング戦略は大いに参考となると思います。

◇腕を磨ける環境

もう一つ、筆者が南相馬市立総合病院に残ることを選択する上で大きかったのが、所属した外科部門の体制でした。当時は部長の大平広道医師(現副院長)、筆者と同時期に赴任した塚田学医師、そして筆者の3人体制で、ベテラン、中堅、若手という構成でした。

大平医師がご自身で手術されることは多くなく、積極的に筆者に手術の術者を割り振ってくださいました。その結果、非常に多くの手術で執刀医としての経験を積むことができました。また、筆者にとってありがたかったのは、一部の疾患を除いては原則、腹部の手術は開腹で実施されていたことでした。実は同院での勤務を希望した大きな理由の一つは、開腹手術を執刀医として数多く経験できるという点でした。

術後の患者の回復を考慮すると、腹腔鏡下での手術が望ましいことは言うまでもありません。一方で、前回(1月31日号)述べましたが、筆者は腹腔鏡手術が苦手でした。それだけに、改めて開腹手術の手技を磨くことができる同院の環境に魅力を感じたのでした。

開腹手術が主たる手術手段となっている状況は、変わりつつある社会のニーズからは乖離していたかもしれません。特に現在であれば、多くの患者は腹腔鏡での手術が可能であれば、それを望むでしょう。一方で、筆者が現在に至るまで、しばしば耳にするのは、若手外科医の間では、開腹手術を中心的に実施している病院でのトレーニングには、一定のニーズがあるということです。なぜなら、自身が執刀する機会がより多くなるからです。伝統的に、外科のトレーニングは開腹手術を中心に構築されてきました。開腹手術では若手医師が術者でも、熟練した指導医が助手を務めていれば、その助手が、助手という立場のまま手術をコントロールすることが、比較的容易です。このため若手医師のトレーニングを実施しつつ、安全に手術を遂行することができます。

一方で、腹腔鏡手術では、助手の助太刀は、開腹手術と同じようには行えず、その都度助手と術者の役割を交換することが一般的です。そのため、腹腔鏡手術では、一般に、術者により高いスキルが求められる傾向があります。結果として、例えば胃がんの手術などで腹腔鏡手術の術者を任せられるのは、開腹手術でのそれに比べ、より年次が高い医師になりがちです。

もちろん、術者を務めることだけがすべてではありません。例えば腹腔鏡手術のみならず、ロボット支援下での手術が普及しつつある現在の外科診療のトレンドを考慮すると、このような手術が実施されている医療機関でトレーニングを積んだ方が、より先端的な医療に接する機会は多くあるでしょう。当然、そのような医療機関でのトレーニングをより好む若手医師も多くいます。

ただ筆者が強調したいのは、地方病院のブランディングに当たり、リソースに恵まれた他の病院と同じような戦略を取っても、医師を惹き付けられないだろうという点です。また南相馬市立総合病院の外科の体制を振り返った時、腹腔鏡手術に人的・物的な投資を行うことは、継続性という観点から疑問が残ります。その点で外科部長の大平医師は、適切なかじ取りをしていらしたと思います。

◇若手を育てる

いずれにしても南相馬市立総合病院では、大平医師の差配もあり、筆者は腹部外科の手術を数多く実施する機会に恵まれました。ただ不思議なもので、同院に赴任後、将来のキャリアとして惹かれたのは乳がん治療でした。これには複数の理由があります。

一つ目は、治療全体に占める手術手技の割合が他のがん腫に比較して少ないことです。外科医を志したものの、手術手技の上達に頭を悩ませてきた筆者にはありがたい特徴でした。

二つ目は、乳がん診療は外科医が1人いれば診断から治療まで、おおむね完結させられるという点です。大平医師は、もともと乳がん診療を専門としており、南相馬市で10年以上にわたり、同市を含む相馬地方の乳がん患者をおおよそ1人でケアしてこられました。

三つ目は、社会的ニーズが高いことです。乳がんは女性で最も診断数が多いがん腫であり、日本では18年の新規診断数が9万4519例に上ります。一方で、乳がん治療を専門とする外科医は多くありません。例えば現在、福島県で乳がんの専門医資格を持っている医師は22人にすぎません。裏を返せば、多くの乳がん患者を診療する機会に恵まれ得るのです。

最後に、乳腺外科は緊急対応が多くありません。日中は外来診療や手術で忙しいのですが、勤務時間外の急患は限定的です。この点は、坪倉医師の下で震災後の健康影響評価に関する活動に従事しようと考えていた筆者にとって、重要な特徴でした。

以上の点を踏まえ、乳腺外科について大平医師の下で学びながら、坪倉医師の下で震災関連の活動に従事することが、自身のキャリアにとって最も有意義であるとの考えに至りました。ここに来て、ようやく初期研修医時代から感じていた震災への思いを昇華させる、心の準備を整えることができたのでした。その頃には15年の春になっていました。

ありがたかったのは、大平医師や南相馬市立総合病院がそのような筆者の思いを最大限尊重し、応援してくれたことです。若手を大事に育ててくれる同院の姿勢もあり、結果的に当初思い描いていたよりもはるかに長い期間、南相馬市で仕事に取り組み、実りある時間を過ごすことができました。同院に常勤医として所属した最後の年だった17年には、東京のがん専門病院に病院の支援を受けながら国内留学もさせていただきました。

南相馬市立総合病院のブランディングの本質は、若手を大切にする姿勢であったと筆者は考えています。 (時事通信社「地方行政」2022年2月28日号より転載)

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